2012年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

最近のトラックバック

競馬用巡回コース

はじめに

こんにちは。ここはNyargoの中央競馬の予想ブログです。

【お知らせ】主な記事は競馬結果予想なので、HM55 ExpressチップセットマシンへのXPインストール関係は、左にある「カテゴリー」から「パソコン・インターネット」を選択すると、まとめられているので便利です。(2011年2月)

【2009年10月】表計算ソフトのエクセルの関数(平均値や偏差値などを計算するための式)を使って、馬の力を積算しています。

【2010年10月】1年間分の抽出データを分析した結果、◎○と☆を抽出し掲載することにしました。抽出条件の変更点は次の通りです。 再訂正の経緯(1年間データを集めてみて)

【2011年09月】ブログ開設以来2年経過し、また買い方を変えました。やはり、偏差値からの抽出では穴馬は見つからないという結論に達し、本命サイドの単勝という買い方に変更しました。顛末は2011年の9月ぐらいからのブログに記載しています。

なお、予想につかっているエクセル関数については、【その他】ページにあるもの他に、本家のWEBサイト内のエクセルで競馬でも雑記として保管しています。(読みにくいですが)

予想が当たろうが当たるまいが、全く責任は取りませんのであしからず。私の収支は、…実は最近プラスです、ホクホク。

エクセルで競馬 | 本家WEBサイト

2012年1月24日 (火)

三国志8プレイ記3(第二幕)(第4話)

※このプレイ記はゲームの進行にあわせて物語を紡いでいます。正史にも演義にもない架空のお話ですからご注意ください。

群雄内政に力を注ぎ諸葛亮出廬す(192年~196年)

196年その2(公孫サンの失脚と董袁対立の予兆)

M196_04

 

(196年4月の勢力状況)

反董承連合結成そして、董承と董卓の密談から3ヶ月ほど経ち、まず動いたのは、董承であった。

諸侯一人一人ならば漢朝の威光でなんとでもなるが、連合軍はさすがにやっかいである。このため、連合軍の要である盟主公孫サンを排除する事にしたのだった。

まずは、漢朝への反抗を理由に征北将軍の称号を剥奪し官軍の指揮権を無効にした。と言ってもこの時期にはすでに北軍は公孫サンの私兵化していたため、実質的な効果は少ないのだが、兵の志気を下げる効果は期待された。

ついでヘイ州の上党太守で第四軍軍団長を務める呂布に、公孫サン討伐を命じた。

すぐさま呂布は晋陽に攻め込んだ。

兵数では公孫サンの方が勝っており、また白馬義従と呼ばれる騎馬隊もあったが、呂布の名を聞いた公孫サンは平地での決戦を避け砦にド兵と籠もる作戦をとった。

しかし、公孫サンは呂布という猛将の見立てを誤ったと言えよう。呂布はその圧倒的武力で砦に突撃を繰り返し、味方がどれだけド兵の餌食になろうともお構いなしであった。

両軍とも消耗が激しくなってくると、結局のところは騎兵による突撃の破壊力の方が優位に立つようになり、また砦はすっかり取り囲まれているため退路がない状態であった。

呂布配下の部将魏続の突撃により、砦の門は破られた。公孫サンは縛を受け呂布の前に引き出された。

破れたとはいえ公孫サンはさすが盟主であった。斬首を恐れず、董承には降伏しないと高言した。呂布は無表情で公孫サンに死を命じたが、配下の者から洛陽(朝廷)の指示を仰ぐよう進言されると思い直して、董承に伝令を送った。

董承としても邪魔者は消すべきであると思っていたが、名声のある公孫サンを自分の命で斬に処すと、あとあとやりにくいと考え、平民に落とした上で追放の措置とした。

 

さて、董承が公孫サンを討伐したことで、盟主不在となった連合軍では、諸侯が集まり軍議が開かれた。

袁紹がその会議を主催し、また自身が新盟主に選ばれる事を望んでいたが、諸侯から新たに盟主に選ばれたのは、賊討伐の実績が甚だしく名声に勝る董卓であった。

悪名も高い董卓であったが、こと連合軍の盟主となれば、軍を率いて戦に勝利せねばならず、諸侯は董卓の戦上手な点を重視したのであった。

196_04

内心苦々しく思いながらも、袁紹は董卓に新盟主の座に就いてもらえるよう誓願した。

 

M196_10

(196年10月の勢力状況)

朝廷の中枢を董承が握っており、連合軍の盟主も董卓であり、どちらが勝利しても董氏が権力を掌握する目算が大であった。

この董氏の台頭を恐れた袁紹は、袁術と連絡を取り袁氏勢力の巻き返しを図った。

まずは、袁紹軍の最精鋭顔良・文醜軍中核に大軍を以て、呂布を攻め撃退しヘイ州を支配下に収めた。

また、元々可進配下であったため、可大后とも面識があった袁紹は、彼女に密使を送り、董氏の台頭が少帝にとっていかに危険かを説いた。

Photo袁紹

さらには田豊を洛陽に遣わし、少帝派の高官に対して、可進の元配下の中では自分が最も兵を揃えており、少帝を擁護できる実力があること、また董氏の天下になったとき有形無形の圧力が少帝に降りかかる事を説明させた。

袁紹からの密使さらには親密な高官からも話を伝え聞いた可大后もこれを是とし内諾した。

これらを受けて、袁術が朝廷に奏上して、袁紹は燕公に任ぜられた。

196_10

 

袁・董両氏の派閥争いの様相を呈してきた洛陽では緊張が極度に高まり、一触即発の気配となった。このため196年冬は両勢力とも相手に対抗するため、洛陽周辺に兵を揃える事に専念し、雪解けを待って出兵するものと予想された。

 

●ゲーム的には?

連合軍でヘイ州を攻め取った際に、董卓は呂布を捕縛する事に成功しました。史実に倣って董卓の秘蔵アイテム赤兎馬を授与し忠誠度を上げる事にしました。

196_04_2

馬中の赤兎、人中の呂布、というわけです。

 

ブログトップ | エクセルで競馬 | 本家WEBサイト

2012年1月23日 (月)

三国志8プレイ記3(第二幕)(第3話)

※このプレイ記はゲームの進行にあわせて物語を紡いでいます。正史にも演義にもない架空のお話ですからご注意ください。

群雄内政に力を注ぎ諸葛亮出廬す(192年~196年)

196年 その1(可進の死と董氏の台頭)

M196_01

 

(196年前半の勢力状況)

前年末の可進の死によって、漢朝の屋台骨が揺らぐこととなった。

Photo董承

可進の跡を継いで大将軍に任ぜられたのは、董承であったが、これには、漢朝の諸官も大いに驚いた。というのは、その董承の姓が「董」であることが原因であった。

というのは、現皇帝である劉弁陛下(少帝)は、母が可進の妹で、そのため可氏が外戚として専権を振るっていたのである。(可進もその”ひき”で大将軍になった。)

これに対して、先帝の霊帝が側室に産ませた「劉協(のちの献帝)」という弟がいた。この側室というのが董氏一族の女官であり、後継者争いの渦中にあったのだ。

可氏と董氏はいわば政敵関係にあったのである。

大将軍に董氏出身の董承が就任するという事は、漢朝の勢力図が塗り変わるという事であり、政略面で混乱を来す事は必定であった。

 

では、なぜ可氏一族の者を差し置いて、董承が大将軍になったのか、ということが謎になるわけだが、これに関しては表立っては、可進との個人的交際が強く影響したと言われていた。

生前の可進が、可氏の繁栄を盤石のものとするため、朝廷に影響力のある董氏の統領で[馬票]騎将軍だった董承に誼を通じ、「義兄弟」となっていたのだ。

しかし、可進は人を見る目がなかったと言えよう。よりによって董氏を義兄弟に選ぶとは…。

それも、後日を知っている今になってこそ、言える事であるのだが。

196_01

 

董氏は、漢朝の名門の一つである。実のところ董承も、そのことで名門風を吹かすところがある人物であったのだが、さらに悪い事に策謀家でもあった。

また、朝廷の中枢に近く、また一門の血筋から皇族(劉協)を出している事を良い事に、諸官から付け届けを強要したり、地方からの貢ぎ物を横領するなど、悪事を働き、清流派からは白眼視される噂の絶えない人物であったのだ。

実は、今回の政変(可進の死から董承の大将軍就任)の裏にも、恐るべき陰謀が秘められていたのであったが、これについては、また後に明らかになるであろう。

 

ともかく、現皇帝である少帝の血筋である可氏に忠義立てした高官の中には、悪名高い董承の大将軍就任に反発して、離反して半独立状態になった者もいた。(ワイ南の袁術、陶謙、上庸の劉エン)

さらには、可進から北軍(征北将軍)を任されていた公孫サンが、諸侯に檄を飛ばし、反董承連合を結成するに至って、事態は急を告げ、洛陽は騒然となった。

196_01_2

 

Photo_2董卓

さて、董卓である。董卓も董氏の一門ではあるが、実は、今回の反董承連合に同調して参戦している。

というのは、董卓は常に、自分自身に最も有利に働く選択をする私利私欲の人物であり、一門の董承が大将軍になったとしても、諸侯が多数反対している状況を承知しており、このままでは董承の政権は長く続かないどころか、彼が失脚した場合同じ董氏ということで、連座させられかねない危険な立場に陥れられただけだと、思っていた。

さらには李儒に謀り、この混乱の中で連合軍を利用すれば、容易に自勢力の拡大が図れる、と値踏みもしたのだった。

こうした状況の中で、董卓の反応は素早かった。公孫サンの檄を受け取るやいなや、安定の凶星に伝令し長安を突くように命じた。

凶星は、長安の西、街亭の険に立て籠もる董承の勢力を、連合軍の圧倒的物量で押し包むと、これを包囲し逃げ道を無くした上で、包囲殲滅した。弘農からの敵援軍も北側から参陣してきたが、凶星はこれを無視、連合軍を分散することなく長安の主力を片付けた。

これにより援軍は無意味となり、弘農からの敵援軍は逃げ帰った。

196_01_4 街亭の戦い

 

Photo董承 Photo_2董卓

董卓の長安占領に驚いた董承は董卓と密会し、自身の謀をを打ち明け董卓を秘密裏に自陣営に引き入れることにした。

董卓も、長安を奪ったばかりだというのに、ふてぶてしくも董承を自宅に招き入れ、その話を聞いたのだった。

196_01_3

董承の秘事は、さすがの董卓にとっても恐るべき事であった。

一つには、可進の死因が病ではなく毒による暗殺であった事。二つには、現皇帝である少帝を廃し、董氏の血姻である劉協を新帝に立てる事。

今回の政変は、全て董承の陰謀であったのだ。

董承は、内に向かっては宮廷の董氏の係累のの女官や宦官と秘かに連絡を取り、可大后に知られることなく宮廷勢力を拡大させつつあり、外に向かっては朝廷の政界工作を着々と進め、可氏に虐げられたり左遷させられたりした諸官の支持を取り付けてることに、ほぼ成功しつつあった。

董卓にとっても、大将軍一人に荷担するのとは違って、皇帝の外戚になれるとなれば、これは話が別であった。勅命を使えば、反対する政敵や勢力などを滅ぼす事など容易な事である。

これを聞いて董卓も、董氏で天下を牛耳るという野望に、はなはだ期待をふくらませ、裏側で協力する事を約束したのだった。

具体的には、董卓が一気に洛陽を突き、その圧倒的軍勢で洛陽を占拠し少帝に廃立を強要する。董承の方は、朝廷工作をさらに進め、皇帝の交代を反対されないだけの根回しを行う。

恐ろしい陰謀であるが、悪名高い二人にとって、清流派の言うような建前など飾りにすぎず、あくまでも俗的な利益、金銭に代表される栄華が自らの手に入ればそれでよいのだった。建前を気にかけるとすればそれは、劉協の即位時に誰からも後ろ指さされないような形式作りをする事程度であったが、それも自身の栄達栄華の差し障りになる事を避けるためにすぎなかった。

 

こうして、董氏の二人は今後の計画について打ち合わせを行った上で別れ、それぞれ陰謀を進める事になった。

董卓は凶星に、「他の連合諸侯に負けないよう洛陽一番乗りを目指せ」との伝達を送った。表立ってはなんの問題もないように聞こえる命令であったが、舞台裏から見れば、それは董卓を至上の官位へ押し上げるための策謀であったのだ。

 

●ゲーム的には?

意外と可進の寿命は短いんですよね。ゲーム的には当然暗殺などではなく、自然死です。

通常プレイの場合は、王允か袁紹を義兄弟にしておいて、史実に沿ったプレイを目指す事が多いのですが、今回は成り行きに任せてみました。

結果的に董承と義兄弟になったので、それにあわせた物語を急遽作ってみました。

 

また、董卓の長安攻めについてですが、このときは漢中から進軍せず、安定から行わせています。

これは、不思議な事に三国志8では、漢中と長安の間には陽平関があるのに、安定と長安の間にはドウ関が無いのです。このため西側から長安を攻めるのが容易になっています。

史実ではそんな事はありません。漢朝にとって(というより全ての中華諸国にとって)西北の騎馬部族の襲来対策は最重要な案件であり、難攻不落といわれた長安で、その西側ががら空きであるなど、あり得ない話のはずです。

 

ブログトップ | エクセルで競馬 | 本家WEBサイト

2012年1月22日 (日)

三国志8プレイ記3(第二幕)(第2話)

※このプレイ記はゲームの進行にあわせて物語を紡いでいます。正史にも演義にもない架空のお話ですからご注意ください。

群雄内政に力を注ぎ諸葛亮出廬す(192年~196年)

195年

M195_01

 

(195年の勢力状況)

Photo_2孫堅 VSPhoto_3劉備

可進が勢力をワイ南まで伸張させてきたため、孫堅も西にばかり目を向けていられなくなった。なによりも劉備が、可進と手を組んで東西から呉領に攻め込んでくる事態は、絶対避けねばならなかった。

このため、まずは孫堅側から、講和に向けての外交「贈呈」が行われた。

これを受けて、劉備としても荊州の人材発掘に主眼を置きたい、という内情もあったため、諸葛亮などを遣わして返礼を行った。

これらを何度か繰り返し、秋頃には両勢力間の緊張が和らぐ事になった。

195_01

 

Photo_4董卓

そのころ董卓は、新たに自領に加えた益州の南鄭(漢中)に本領を移し、占領地の鎮撫を行っていた。新たに占領した土地の民を早く自分の政に慣れさせることは重要事であり、董卓もそれを自ら行う事にしたのだった。

しかし、そのために旧本拠地であった安定とは、長安に遮られて直接連絡が取れない状況になった。このため可進に涼州を奪われないよう、安定には凶星等歴戦の部隊を駐屯させることとした。

ただし、万が一凶星等が裏切った場合に備えて、郭シ、李カク、李儒等の古参部将の精鋭は全て、漢中の留め置き、兵の大半も漢中に集中させていた。

 

そして、冬。

 

民も正月の準備にいそしむ、師走も押し迫った頃、洛陽から全土に訃報が伝えられた。

それは、大将軍可進の死であった…。

195_12

 

●ゲーム的には?

※次の記事は、余りに有名なイベントで、私も何回かブログやWEBサイトで取り上げているので、今回はこの欄外に飛ばしました。

三国志8で、劉備プレイをしている場合の最大の盛り上がり年、徐庶、諸葛亮、ホウ統がスカウト可能な195年になりました。これは徐庶が成人15歳になって登用可能年齢に達したためです。通常の人材探しでは見つからず、イベントでしか登用できないのでご注意ください。

慣れた人なら、劉備プレイをしていればこの3連コンボ(+諸葛均)は必ず起こすイベントでしょうからすでにご存じだとは思いますが、一応説明を。

このイベントのトリガーは「水鏡先生こと司馬徽(旅人)との親密度が信頼以上であること」です。ただし、イベントは君主プレイで、原則襄陽を自領としており、かつ相性が劉備系統である必要があります。さらに諸葛亮三顧だけは劉備でしか起こせないイベントです。

前年までに司馬徽と親密になっていれば、年が明けて1月の街角で「単福(徐庶の偽名)」と出会います。単福から出される謎かけに正解すると、徐庶が本名を名乗り劉備に仕官します。

195_01_2 195年1月

徐庶と親密になる事が、次のイベント「三顧」のトリガーなので、徐庶を十分にもてなします(接待漬け)。具体的には、まずは行動力が許す限り酒宴に招待し、とどめに、いずれ100%的中軍師にするために必要になる兵書(知力+5)を、早めに贈呈します。

すると早ければ次の月に、伏竜(諸葛亮)を推挙します。

195_01_3 195年2月

ただし、三顧は、直接諸葛亮を3回訪問する必要があります。とは言っても自動イベントですので、何かしなければならないわけではありません。ただ諸葛亮を陣営に迎えるためには3ヶ月必要だという事です。

最速で5月には、諸葛亮が劉備勢力に加わります。

195_04 195年5月

次の月には、謎の県令(鳳雛:ホウ統)が登場します。民からの陳情を1日で全て処理してみせると高言するので、やらせてみるとホウ統が仕えるようになります。

まあ、ホウ統は武力が低く落雷というバクチ特技がメインなので、史実とは違ってあまり戦では使えない部将なのですが。

195_06 195年6月

 

演義でもおなじみの「水魚の交わり」のごとく、諸葛亮と親交を深めると(例によって酒宴漬け)、諸葛亮と義兄弟になる可能性があります。

195_06_2 195年6月

諸葛亮(徐庶でもホウ統でも良いのですが好みで)と義兄弟になると、軍師にしたときに提案を蹴っても親密度が下がりません。このゲームのNPC軍師はすぐに徴兵を進言してくるので、それを退けて親密度が下がる事を避けられるのは有意義です。

なお、前線(他国と接する都市)では、他国とお互いに徴兵合戦(軍拡競争)に陥りやすいので、安定的な後方都市を多く持っている方が人口が増えやすく、いわゆる良政と言えるでしょう(ゲームなので関係ないと言われればそれまでですが)。

  

ブログトップ | エクセルで競馬 | 本家WEBサイト

2012年1月19日 (木)

職場で1%募金が始まりました

職場で、東日本大震災の復興のための新しい募金「1%募金」が、始まりました。

近頃は、募金活動をしている人を見かける事も少なくなり、前回募金したのは、1月中旬に上野駅前で街頭活動をしている大学生のところでしたので、職場で募金活動が再開されたのはありがたい事です。

この募金は、自分の(何かの)1%を募金しようという趣旨のもので、職場では昼食代の1%を募金しようということで進められています。

私は、せっかくの機会なので給与の1%を募金する事にしました。職場の募金なら確実にしっかりした団体へ届けられるでしょうから。

こういった活動は向こう3年ぐらい継続されるとありがたいです。

 

また、このところ旅行を多くしているのも、似たような意味があります。

こういった時期は需要(特に内需)が冷え込みます。よけいに景気が悪くなるので、これから3年間はあまり無目的な節制をせず、有意義なお金使いを心がけていきたいです。

そういった場合、人によって消費の向け先は違うと思うのですが、私は、今まで余り電車で家族旅行をしていなかった事に気づきましたので、旅行にしました。(独りバイクでフラフラしていた時期は異常に長かったのですが、あくまでも一人旅でした。)

そのため、親孝行を兼ねて、旅行にお金を使おうと決めたわけです。

ルールとしては2つ。ルール1は、公務出張があったら、事前に下見を兼ねて家族旅行をする。ルール2は、以前生きたいと思っていてバイクで回りきれなかったところへ行く。

ルール2は、基本的に遠いところが多いので、連休をうまく使わないといけないのですが、何とか今年中に2カ所は行きたいと思っています。

 

参考サイト

http://www.mlit.go.jp/kankocho/news05_000091.html

 

ブログトップ | エクセルで競馬 | 本家WEBサイト

AJCC展望2

出走馬が確定しました

残念ながら冬場が大好きコスモファントムは回避のようです。残る指名馬は

◎ルーラーシップ
○コスモファントム
▲ネヴァブション
△ナカヤマナイト

このような状態になっています。

今日は、指名した馬の理由や残る不安、指名しなかった馬の理由などを書いてみたいと思います。

 

◎ルーラーシップ

一番傷が少ない馬です。格も近況も前走からのローテも問題ありません。心配なのは中山重賞実績で、まだ連対した事がありません。

▲ネヴァブション

中山も冬も得意な馬で実績は十分です。前々走で3着ながらも馬券内に来ており、勝ちはともかく馬券圏内はじゅうぶんあり得ます。ただし心配は、高齢(9歳)であること。過去7年間馬券内に来ているのは8歳までです。

△ナカヤマナイト

G2連対相当の実績があり、前走馬券内に来ているため調子落ちもなく、圏内候補です。心配な点は、中山重賞実績が未経験ということです。しかしながらこれは今年の4歳馬に共通する事で、東日本大震災により中山競馬場が破損したことで開催がなかったためであり、度外視できます。また冬場の重賞実績に欠ける点も、同じく4歳馬でまだ経験年数が少ないという事で目を瞑ります。ただし、唯一危険なのが、前走がオープン戦であった点です。

消ゲシュタルト

昨年オールカマーで連対した馬です。この条件は得意なのでしょうが、このパターンで来た馬は少ないので切ります。

消リッツィースター

アガリ馬ですが、3ヶ月の休み明けなので、リセットされていると判断しました。これが12月に中山を走ってのアガリ馬なら、☆にしたのですが。

消トーセンレーヴ

格不足(G3連対相当)はさほど問題にしなかったのですが、冬が未経験である事で、未知数なのが不安です。コスモファントムが回避したので、1頭だけ加えるならこの馬でしょうか。私は、印のある馬のワイドで伏兵が飛び込んできても対応できるようにするつもりですが。

 

ブログトップ | エクセルで競馬 | 本家WEBサイト

2012年1月18日 (水)

AJCC展望

恥ずかしい文章を早く消すために、競馬の予想を書いて、下へ追いやろうと思います。

今週末は中山でAJCC(GII)があります。

 

過去の傾向(2011年~2003年)を見てみると、次のような傾向が出てきました。

●馬券内に来た馬

・G1連対実績相当(G1連対またはG2馬):9頭
・G2連対実績相当(G2連対またはG3馬):6頭
・アガリ馬:4頭
・その他:4頭

ただし、中山重賞実績が無くても、馬券内あり。

●1~4番人気で4着以下の馬

・G1連対実績相当(G1連対またはG2馬):10頭
・G2連対実績相当(G2連対またはG3馬):6頭
・アガリ馬:2頭
・その他:1頭

あまり違いは出ませんでした。

 

そこで格いがいにもう一つ条件を加えて、細分化してみます。

条件は、「前走または前々走で馬券内に来ている。(★とする)」とします。ただし、アガリ馬は100%馬券内に来ているので外し、その他も少数で意味が少ないので比較から外します。

●馬券内に来た馬

・G1連対実績相当(G1連対またはG2馬)
 前走または前々走で馬券内に来ている:4頭(★)
 馬券内に来ていない:5頭

・G2連対実績相当(G2連対またはG3馬)
 前走または前々走で馬券内に来ている:5頭(★)
 馬券内に来ていない:1頭

●1~4番人気で4着以下の馬

・G1連対実績相当(G1連対またはG2馬)
 前走または前々走で馬券内に来ている:3頭(★)
 馬券内に来ていない:7頭

・G2連対実績相当(G2連対またはG3馬)
 前走または前々走で馬券内に来ている:4頭(★)
 馬券内に来ていない:2頭

前2走以内で馬券に絡んでる方が良さそうな傾向ではありますが、突出して良いデータでは無さそうです。

 

【結論】紛れが多そうなので、ボックス買いの方が良さそうです。

ただし、そのほかの条件に、冬場の重賞実績が2回以上あった方が信頼性が高い事や、昨年のオールカマーで良績を残した馬の連動があまりない(トウショウシロッコぐらいです)事から判断して、次の馬をチョイスしました。

 

◎ルーラーシップ
○コスモファントム
▲ネヴァブション
△ナカヤマナイト

 

ブログトップ | エクセルで競馬 | 本家WEBサイト

酔っぱらいの小松左京考2

酔人が小松左京を送るの辞

老人と里山の風景

 

私が小松左京の作品の中で最も好きなシーンは「里山と老人の組み合わせ」が書かれた下りです。

名作長編「果てしなき流れの果てに」では、和泉の葛城山麓で年老いていく老婆と、突如現れた謎の老人(主人公)が、里山の家の縁側で、おそらく日向ぼっこをしながら、語り合う風景。

(私の頭の中に浮かぶこの縁側の風景は、若い頃から今まで一貫して、母方の実家、高知の山径にある祖父母の家の南向きの縁側です。)

または「お茶漬の味」に登場する山間の部落の老人。

(余談ですが、「お茶漬の味」では、私個人としては、茄子の漬け物など全く好みの漬け物ではないのですが(純種キュウリのしかもヘタの方に限る、や大根、小松菜といったものの浅漬けのシャキッとした歯ごたえが好きです)、好きではないはずなのに、この作品の中に登場する茄子茶漬けは、食べたい、とつばが出てきてしまいます。)

そして前回のブログにも書いた「東海の島」に登場する海人の長老。

これらの人々に共通する、良き人生を得られた人だけが発する清香、ふくふくとした人生の結晶、そういった人格を、小松左京はさりげなくそれでいて見事に書き切っています。

これらの老人は、大金持ちでもなく、歴史上の大物でもありません。それなのに彼、彼女らから発せられる「幸福感」というべきもの、この正体は何なのでしょうか。

 

小松左京作品の中で、それについて見つけるならば、一般的で有名な命題にたどり着きます。それは「人間の知恵」というものをベースにして、「我々は何処から来たのか。我々は何者か。我々は何処へ行くのか。」を問いかける、というものです。私は、これらの命題の内、いずれかについて回答が得られるとき、幸福感を感じます。

前述の「里山と老人」の風景も、これらの命題の内の一つに対して、回答を提示しているのだと思います。そのため私が感じた幸福感が、登場人物の投影されて、あたかもその登場人物が幸福であるように感じられるのではないでしょうか。

では、「里山と老人」から感じる幸福感は、いずれの命題から発するものなのでしょうか。

 

小松左京作品では、表立っては、第3の命題「我々は何処へ行くのか」についての回答として書かれた作品が多く、有名な「神への長い道」で得られる幸福感も、第3の命題によるものです。

「神への長い道」とは、多数の知識を集約する事によって宇宙全体を推測しきる(つまり悟り)、それをプロジェクトの一つとして選んだ宇宙人について語られた中編小説です。

しかし「神への長い道」で語られたように、残念ながら、一個の有機体である人間は、どれだけ大人物であろうと、欲望の最たるもの、この広大な宇宙全てを見切る事、はできません。

(そもそも私個人の試算では、地球上の全ての燃料資源をもってしても、全ての人類が平等に宇宙旅行へ旅立つことにすら足りません。)

結局のところ、それはフィクションであり、今私が実行できる事ではありません。

では、現代の地球上に、現実に生きている私たちが、一人の人間として得られる幸福というものは、いずこにあるのでしょうか。

そこで、今回のテーマ「里山と老人」が現れます。このテーマは、第2の命題「我々は何者か」に係るものだと思っています。

 

さて、小松左京は、多感な少年時代が戦時中と重なります。それは、空襲や疎開(彼は都会っ子でした)、親類の戦死(今の若い人たちは、実家の欄間に軍服を着た若人の白黒写真が架けられている風景などは知らないでしょうか)、こういった人の生き死にが身近にあった時代でした。また戦後を迎えたら、今度は価値観が真反対を向かされて生かされる。こういった中で、彼は、人間の幸福とは何か?人はどう生きるべきか?(誰でも考えるこういったもの)を、きっと普通よりも激しく考えたに違いないのです。

こういった彼の精神によって、作品の中の老人たちは産み出され、それが第2の命題について、一つの回答を明示しているのだと思います。

私も未だその回答の全てを見つけきってはいませんが、今現在読みとれた回答の一つが、俗な書き方になってしまいますが、「なんだ、幸せは自分の家にあったじゃないか(青い鳥理論)」ということです。

この実感は青い鳥を探して一度旅立ったからこそ得られる結論である、という点は、「果てしなき流れの果てに」や「お茶漬の味」でも作品の下地になっています。

 

ふりかえって、「果てしなき流れの果てに」という作品についてもう一度考えてみると、もし、この作品の中で語られるのが、超能力を持った主人公(息子)と主人公(父)の葛藤だけであったら、どうだったでしょう。

逆に、この宇宙を超えて限界の扉を開いてしまった主人公が、結局、最後にたどり着いたのが、山里の老婆の家であった、という結末。ごく普通の山里の家の縁側で終える主人公の人生。

この絶望的と言っていいほどの「距離」の対比を書いたからこそ、この「果てしなき流れの果てに」という作品は、名作たり得たのではないか、と思うのです。

 

そしてそれは、極限の疑問であるところの「一人の人間として、幸せに(笑って)死ぬ方法はあるのか?」ということに通じます。

自分がいつ死ぬかなんてわかったものじゃありませんが、すこしでもまっとうな回答を得てから、そのときを迎えたいものです。

 

(酔いが覚めて読み返してみて、ひとこと)う~ん、さすが酔っぱらいだけあって、文章に酔ってる。恥ずかしいからこのまま残して晒し上げておこう。

 

ブログトップ | エクセルで競馬 | 本家WEBサイト

2012年1月17日 (火)

酔っぱらいの小松左京考1

酔人が小松左京を送るの辞

契丹展に連想する中国大陸前史「東海の島」

 

小松左京の左京の作品に「東海の島」という短編があります。

フィクションであるという点に注意して読まなくてはいけませんし、また当時のSF作品の宿命で、結末は時間旅行オチが使われているのですが、その序盤から終盤にかかるまでの息をつかせぬ展開と仮定としての中原の生成過程(ある程度中国史を知らないと、何のことやらかも知れません)、まさに博識の上にさらに調査を加え豊かな想像力をまぶす、優良な小松作品の典型の一つです。

この作品では、「東海の島(蓬莱)」とは、泰山と山東半島を指すということになっています。日本ではないのです。

泰山も山東半島も大陸の一部じゃないかと思うのは当然ですが、ここで小松左京が長老に語らせる昔話が、この荒唐無稽なストーリーにとてつもない説得力を持たせるのです。

長老によれば、中原は古(夏王朝、三皇五帝よりはるか以前)、海の一部であったというのです。また老人が聞いた遠方の言い伝えによれば、現在のゴビ沙漠にも湖(というより海)があって、これが地殻変動によって(南側が)決壊し太行山脈を通って、現在の中原に流れ込み、大量の土砂を運んだ。これに加えて海岸線の後退もあって、中原が生成されたと言う。

つまり、太古の昔、海岸線であった山東(ここでいう山東は太行山脈の東の意)からみた東海の島、蓬莱山とは最初に述べたように「泰山と山東半島」であったとするのです。

 

この小説の中で、長老はこうも言っています。

「…陸人、とりわけ農人は、定着して邑をつくり、都を設け、諸官を整えて、大廈に記録をよくのこす。しかし牧人や海人は広野大海を広くわたって動き、技術のほかは、もっとも肝要の事だけ、しっかりと頭に入れておかねばならん。したがって、古い事を大きくさかのぼってつたえるものもすくない…」

まさに北方牧人の一族である契丹にも当てはまる言葉です。

小松左京は、戦後間もない昭和の中盤に、すでにこのことに気づいており、かつ小説の中に残しているのです。

このことは、彼のその博識以上に、知識の使い方というのでしょうか、それとも知識の目指す方向性とでもいうのでしょうか、うまくは言えないのですが、「人はその種に授けられた知識という力を如何に使うべきか」ということを明示してくれているのではないか、と思うのです。

※この「東海の島」では、このほかにも驚くべき可能性について、数多く語られています。興味のある方は探して読んでみてください。ただしあくまでもフィクションですが。

(しかし考え方によっては、主人公が時間旅行者だったというよくあるSFオチに惑わされることなく、本文だけを抜き出してみれば、ある程度の考古学的科学的考察に基づいたフィクションですから、本文自体、これもまた「過去へ視点を向けた」サイエンス・フィクションである、と言えるかも知れません。)

 

ブログトップ | エクセルで競馬 | 本家WEBサイト

2012年1月11日 (水)

北京故宮博物院200選を見学してきました

東京国立博物館で開催されている北京故宮展を家族揃って見に行ってきました。

いやぁ、本当にすごかったです。中国もよくこんなすごい文物を国外に出しましたね。経済発展がもたらした大人の自信というものを感じます。それともアメリカがF35の提供を決定したのでその対策としてかもしれない…、というのは勘ぐり過ぎですね。

120111_002

 

乾隆帝

行ってみてびっくり。

今回の展示物の詳細目録は全く知らず白紙に「清明上河図」と書かれたような状態で見に行ったのですが、No.142乾隆帝古装像屏(漢服を着た乾隆帝)、No.192乾隆帝大閲像軸(西洋風甲冑を着た乾隆帝)、この2点を間近で見られたのです。(もちろん清服の乾隆帝像も展示されています。)

乾隆帝は、外様による中国全土支配のため、各文化の尊重・融和に尽力した皇帝で有名ですが、絵の中の乾隆帝の端正な顔だちにも、そういったことへの意志や志操がよく表現されており、絵自体に威厳がありました。

なお、絵に登場する西洋風甲冑(実物)も展示されています。

 

好みがあると思いますが、私は「草書述張旭筆法巻(No.43)」を気に入りました。

まるでひらがなではないか、と疑うほどに柔らかく崩された漢字。無心の境地で書かれたのではないか、と思うほど全く引っかかりが無く最後まで流れ切っている筆運び。

草書のお手本のような書でして、まったくお習字は不得手な私ですが、この書のすごさはわかりました。

もしかしたら草書というものは、中国人を除けば、ひらがなを日常使いしている日本人だけが、最もその価値を理解できるのかも知れません。

 

器では、豆彩鶏文杯(No.66)という小品が気に入りました。

罰当たりなんですが、形が酒杯にぴったりで。あれで一杯飲めるなら一財産かけてもいいというのんべがいそうな、まさしくそういった形をしていました。

 

その他

玉器などは多くが蒋介石によって台湾故宮に移されたと聞きますが、方斗形玉杯(No.132)、倣古玉キ[竹良皿](No.137)の、半透明でしっとりとした色は大変上品なものでした。中国人が玉に魅せられるのも頷けます。

 

神品は端っこだけ見ました 

そもそもは、注目の神品「清明上河図」を一番の目的に行ったのですが、なんとこれを見るのは諦めることになりました…。

その理由はこれ↓

120111_001_2

神品だけは、特別にそれ専門の列に並ばなくてはいけなかったのですが、それが。

に、200分…。3時間以上です。

左奥にある平成館の入り口で、入場制限待ちで並んだのですが、その間に家族で打ち合わせをしました。最初は並ぶかという話にまとまりそうだったのですが、入り口での待ち時間は、看板に10分と書かれているのに結局15分程度待ちました。ということは、神品を見るには単純計算で1.5倍、300分(5時間)待ちの計算です。

国立博物館に着いたのが午後1時前でしたので、下手をすると並んでいる内に閉館しそうです。トホホ。結局今日のところは並ばない、という結論になりました。そのかわり他のものを全部見ようと。

★その後、常連(?)の方の話によると、朝イチ開館前に並んで見学するのが、結果的には一番待ち時間が短くなるそうです。いったん列が出来ると、待ち時間はなかなか解消されないとのことでした。

★なお、別の列とは言っても、展示室が独立しているわけではなくロープで仕切られているだけです。このため人垣の間から、ちらっと見ることだけは出来ます。(どの程度見えるかというのは、上野のパンダブームのときと一緒ですので、期待はしないでください。)

 

おみやげ

最後におみやげの話をちょこっと。

あれ?静岡県立美術館でも見たストラップが並んでる。胴元が一緒か?

乾隆帝の絵はがきを買いました。

乾隆帝は皇帝としての使命のために、融和策として中原の服である漢服を着ました。(もともと清という国家は、本来かなり融和政策的な統治をしたのですが、服と髪だけは清のものにするよう定めていました。)

私も去年転勤で職務内容ががらっと変わり、なかなか難しいと感じていましたが、乾隆帝の爪の垢を煎じて飲ませてもらう気持ちで、見習ってがんばろうと思いました。

一つは早速、本館にあるテーブルにて、昨年までお世話になった方に向けて書きまして、上野駅前のポストに投函しました。

 

ブログトップ | エクセルで競馬 | 本家WEBサイト

三国志8プレイ記3(第二幕)(第1話)

※このプレイ記はゲームの進行にあわせて物語を紡いでいます。正史にも演義にもない架空のお話ですからご注意ください。

群雄内政に力を注ぎ諸葛亮出廬す(192年~196年)

192年~194年

192年

M192_01

191年末までに、叛賊の討伐は一区切りが付いた…。

しかしながら、各地の賊の討伐で名を上げた有力部将は各自の根拠地において力をつけ始めていた。彼らは連合軍として転戦する中で、勝つために戦術を磨き、また軍を出すためには兵糧等の補給の問題もあって各自自勢力の地盤を固める必要があったのだが、結果としてそれは諸侯の軍閥化を伴うことになったのだった。

また、可進の漢朝正規軍はこれといった活躍が目立ず、戦場では突っ立っていただけと酷評された。このこともあって諸侯は可進を見限り始めており、彼のの指図では動かなくなりつつあった。

群雄は、漢朝の御旗には従うものの、半独立状態となっていたのだった…。

192~194年の諸勢力の動き

M194_09

北から順に、

Photo公孫サン vs Photo_2 袁紹

公孫サンの略奪行為に頭を痛めていた袁紹だったが、田豊のすすめで公孫サンに金品を送り続けることで、親密度を上げて小康状態を保つことに成功していた。

下手に出続けた袁紹を侮り油断した公孫サンは、全軍で張燕を攻めた。晋陽を陥落した公孫サンだったが、その隙に、もぬけの空だった本拠地ケイを袁紹に奪われるという失態を犯した。

また、袁紹は長子袁譚に命じ、青州を攻略させた。

これらの軍事活動により、北方での袁氏の優勢は動かしがたいものとなった。ただし、古の燕、趙、斉の3国を有するその広大な勢力圏に対して、配下の不足が懸案となっていくものと思われる。

Photo_3曹操

この袁紹の動きに敏感に反応したのは、勢力圏が接する曹操であった。

程イクの進言によると、このままでいくと袁氏が青州からさらに徐州に南下した場合、袁氏の勢力は漢朝を凌ぎ、朝廷もその勢力拡大を無視できなくなる。この場合、懐柔するか討伐するかの選択になるが、袁氏は漢朝の名門であり、おそらく懐柔策をとるであろうとのことであった。

この場合の懐柔策とは、すなわち袁氏に「公」の位が贈られるということがほぼ確実である。そうなると曹操は、朝廷に関する政略面で可進に対しても袁紹に対しても下流に立つことになり、さらには軍事的にも勢力が朝廷と袁氏に包み込まれる形ともなるため、非常に危険であった。

曹操は、程イクの進言を受けて、すぐさまボク陽の荀彧に命じ、袁紹に先んじて徐州を押さえさせた。

Photo_4董卓

董卓は、蜀に盤踞し自勢力に対して略奪などを頻繁に仕掛けてくる賊の残党を看過できず、これらを全て討ち滅ぼし、成都でもって南蛮の押さえを行うことにした。

Photo_5劉備 vs Photo_6孫堅

劉備と孫堅は江夏において激突していた。

そもそも問題の原点は、荊州の領有権にあった。

もともと荊南に盤踞していた凶星の討伐を命じられ征南将軍に任じられたのは孫堅であった。また凶星も孫堅を恐れて逃げ出したのであって、その功績も孫堅に帰すものであることは明白であった。

しかし、たまたまといっていい程度で荊南で旗揚げした劉備が、孫堅が揚州を平定している間に、さっと勢力を伸ばして各地の要衝を実力で押さえてしまったのだった。

連合軍として合同作戦をとっている間は険悪な状態にはならなかったのだが、連合軍が解散し、さらには劉備が江夏にまで勢力を伸ばしたことで、問題が悪化した。江夏は荊北とワイ南を結ぶ軍事上の要衝で、劉備がさらなる領土拡大を目論んでいるものと、孫堅勢が判断したのも当然のことと言えた。

このため、孫堅勢の軍議では対劉備主戦論が優勢となり、その過程で、そもそもの荊州支配権についても紛糾したのであった。

194年ついに孫堅は、柴桑太守で義兄弟の黄蓋に江夏攻略を命じた。

戦うこと実に三度、怒濤の孫堅軍の攻撃にも、ぎりぎりのところではあるが今のところ江夏の陥落は免れていた。

 

194年末(10月)

M194_01

 

●ゲーム的には?

こうして、各勢力がまるで碁盤の目を埋めるように勢力を広げ、緩衝地帯となっていた空白地少なくなっています。

さらには連合が機能しなくなる状況でもあり、各勢力とも内政に地道を上げてはいますが、それは嵐の前の静けさとも言えます。

こういった中、劉備勢力で三国志8をプレイする際に一番のキモとなるイベント年、195年を迎えます。

 

ブログトップ | エクセルで競馬 | 本家WEBサイト

«騎馬民族国家契丹雑記

フォト
無料ブログはココログ